昭和52年04月13日 13日会



 鐘が鳴るのか撞木が鳴るか、鐘と撞木の合いがなると、これは歌の文句です。鐘が鳴るのか撞木が鳴るか、鐘と種目の合いがなる。鐘でも無からなければ撞木でもない。その鐘と撞木との合いが鳴るんだと。信心させて貰ういわゆる神様と私共との間がね。この喜びは、どこから湧いてくるのかそれなんです。神様が下さったものでもなからなければ、自分が作ったものでもない。その神様と私共の合いに、その自分の心の中に聞き取る事の出来るのが、信心の言うならば妙音だと思うんです。
 そして十三日会といや、神様の願いが成就する日として、まぁ合楽ではまぁ一番大切にして、そして今日一日は一つ、神様の願いがお成就になられることの為に、御用もさせて貰おう奉仕もさせて貰おう。ですから神様がお喜びにならない筈がありませんよね。だからその喜びが、自分の心へ果たして伝わってくるか、伝わってこないかと言う事なんですよ、私は今日御神前に出てから、その事をお願いさせて貰いよりましたら、大きな釣鐘の前にこう撞木がこんなあるんですよ。
 その撞木がね両方から、あれはこう綱で引っ張ってありますよね。それがあのなんとあの何ですか藁をしとうてね。藁がしとうてある訳なんです。それにこう引っ張ってあって、撞木ではなくてしとてて分かるですかね。昔はねしとてこの位ずつに、こう手を取っていって、だから実が落ちた殻を、あれをしとてしとてと、こう言ったわけですけども。それがこう撞木のようにしてあって、それをこうして、例えば突いてもですよ。果たして鐘が鳴るかと言う事なんですよ。
 私は藁と言う事は、もうとった後の殻だと言うような感じがしますね。言うならば真心のないと言う事になるかも知れませんね。思いがないと。本当に折角信心させて頂くのですから、本当にこの喜びはどこから湧いてくるのかと言う。本当に今日一日御用頂いて良かったとか、有難かったかと言うものが、頂いて帰らなかったら、丁度あの殻の藁で撞木を突いたようなもので、撞木のそれこそ合いの音というものが出る筈がないです。だから信心させて頂くのもそこん所が工夫が大事なんです。
 本当に合楽の十三日会といや、もう本当に例えばここ二三回、鹿児島から参ってくる方があります。もうせめて十三日会だけでもと言うて。今日も丁度今朝の二時に、久留米に着かれたそうですから。久留米に親戚があるのにも関わらず、もう一直線にここへ二時間掛けて歩いて参ってきたんです。そして朝の御祈念を頂いて、もうそれこそ有難いそして、もうそれこそ感動。はぁそこまで行かんと、やっぱあの感動が湧かんという様なね。神様へ向ける一心が強ければ強いだけ、感動が打ち返ってくるです。
 そして今日お届けをされますのに、私は十三日という、お商売をなさっておられますけれども。十三日の日の売り上げの全部を、十三日会の御礼十三日会として、お供えさせて頂きたいという。一番初め参ってきた時に大変感動されてね、この十三日会と言う事の内容を聞かれて。そしてある教会にもお参りしておられるんですけれども。色々まぁおかげにならない。そこへ親戚の者から導かれて、お参りをして見えたのが初めてでしたけれども。所が先生不思議なことにね。
 その十三日会という日に、二倍も今度は三倍も売り上げが多かったち。そらぁ困ったのと私がまぁ申しました事でしたけれどね。はっははけれどもその本当に、神様の願いが成就する日に、奉仕しようという気になったら、神様がねそういうほんなら三倍、何時もの三倍もの売り上げを下さると言う事に、一つ思いを置かなきゃいけません。そんなら日々が十三日会と思うてね。
 神様がお喜び頂けれるような日々でありたいと、私は願うならば、もうその三倍の売り上げが、その店の言うならば。もう毎日の売り上げと言う事に、私はなると思うです。そうでしょうが。ね。だから十三日会だけは、神様の願いの成就する日。あとの二十九日はもう、私の願いが成就する日てんなんてんじゃいかんち言うことです。もう金光様のご信心は、何時もが、神様の願いが成就することの為に、神様のお喜びを頂けると言う事は、そういう事なんです。ね。
 そういう思いで私は、打ち向こうて来る時に、必ず自分の心の中に感動が湧いてくる。それこそどこから湧いてくるか分からない、ね。それこそ鐘が鳴るのか撞木が鳴るか。鐘でもなからなければ撞木ではない。もう本当に一生懸命のその思いが、神様とその氏子の合間から放される所の、いわば妙音というものを、聞きとらせて頂けれるような信心が頂きたいですね。
 特にほんなら十三日会は、神様の願いが成就する日というのですから、ほんなら午前中のいわゆる奉仕なら、草一本も取らせて頂くでも、そういう思いを心に込めての御用でなからなければ、折角一日を費やして、ね。丁度藁で鐘を突いたように、ボソッと言うような音しかでらないと言う事になるのじゃないでしょうかね。撞木と言う事は私は殊勝な心と思うですね。もくという字は木ですから、きは心、ね。ですから本当にけなげな心、ね。本当にあの、けなげな心て素晴らしいですね。
 私は今朝この御用日誌を読ませて頂きよりましたら、幹三郎が昨日正奉仕でしたから、書いておりますことの中にね。所管の所にこう言う事を書いております。「親を思うて、朝起きをする。親の心を思うたら、朝起きせずにはおられない。親を思う心にまさる親心、その親心に接するその瞬間、今まで眠くて眠くて仕方がなかったものが、吹っ飛んでしまう。親を思えば思うほど親が子供に、限りないもので思うて下さっておるのが分かる。勝るどころではない。
 常に限りない無条件の心で、子の事を思うて下さっておる。その親心が分かるから、辛抱せずにはおられない。眠くても眠くても、起きずにはおられない。」と言うね。例えば、親の私がこれを聞いて、嬉しゅうなかろう筈がない。もうこの人ならなにやったっちゃ良かというごたる気すら起こるでしょうが。ほんならこれに徹しきれるかどうか、それは分かりませんけれども。
 確かにほんなら彼の朝の奉仕なんかは、そうだろうと思うです。もう眠うして眠うして目が開かんごたるけれども、ほんなら私の奉仕のその姿に触れたら、眠さが取れると言っておる。親の喜びももうこれに過ぎたる事はないと言う様な思いがね。ほんなら今日神様と私共という風に、置き換えて考えても良いのです。そういうものが十三日回は、どんな事があってもと言った様な一念を燃やすところからです。私は親の喜びを頂く事が出来ると思うです。ね。
 どうぞ一つ折角の十三日会ですから、只有難いお話を頂いて帰るだけじゃない。その有難いお話がね、次の私共の信心の。昨日の御理解でしたか。御神前に出たら、大根のとうの立っとるお知らせを頂いてから。信心もとうが立ったらね。もうすぱすぱして水気がなくなってね、もう使い物にならんでしょうが。中に巣がほげるから。だから信心もとうが立ったら駄目です。だからもう瑞々しいまでのね、あの本当にあの瑞々しいまでの信心をさせてもらわなきゃならん。
 とうが立った教会がどのくらいあるか分からん。とうの立った信者がどのくらい沢山おるか分からない。ただ信心しとりますというだけであって、ね。だから自分の心の中に、何時も瑞々しい、例えば昨日か一昨日かですか、頂いておりますように一切が修行だと受けられて、初めて一切が神愛と言う事が分かるんです。分かると言う事なら話を聞きゃはぁ何が、一切が神愛と言う事はすぐ分かるです。分かる事は。
 けども実感として神愛として受け止めるためには、一切がほんなら自分に掛けられた神様の願いというか。自分に求め給うその修行を本気で合掌して受ける心にならなければ、一切が神愛と言う事は、実感として分からないです。そうところじゃない、もう御の字を付けさえすれば良いと言うて、自分の都合の良か時だけ、御の字を付けてね自分の都合の悪いことは、向こうのほうへ押しやる様な事で、その御の字で受けると言う事で、おかげになると言う事はない。
 もうこの辺の所はもう本当に、今朝から皆さんに聞いて頂いたんですけれども。はぁこりゃもう本当にどう言う様な、例えば今までこりゃ悪い事だと思うておった事でも、御の字で頂だきゃ良かと。そして自分が頂く事だけは御の字を付けてから、神様が愈々受けてくれよと言う事には、向こうの方へ押しやる様な事では、その御の字が生きて来ない訳。どう言う様な一切の事柄の中に、御の字を頂いての御事柄と言う事になった時に、事柄の全てが生きて来るんです。
 そこにほんならうなら、瑞々しいものが生まれてくる。信心にはこのもう瑞々しいと言うものがなかったら駄目です。それはどう言う事かというと、どこから湧いてくるか分からない。この喜びはどこから来て、どこへ去って行くのだろうと、自分で思うくらいなね。一つの信心の言うなら感動というか、有難いものが頂けなければ。ましてや今日一日を神様の前に奉仕するんですからね言うならば、ここで撞木で突くのですから。本当に良い音色が聞かれなかったなんて言う様な事があって、良かろう筈がないですね。
   どうぞ。